休職日記番外編 退職の挨拶回りとしわくちゃの1000円札

強度HSP(繊細さん)として約4年半、手術室という激しい部署で看護師として働き、うつ病で半年の休職。そして、私は退職を決めました。

この決断に至るまでには、様々な葛藤がありました。

しかし、今日はその葛藤については触れません。それよりも他に、どうしてもブログに残したい様々な思いが溢れてきたからです。

これは、自分のために書いた記事です。

途中、暗い話題にもなりますが、最後は希望の話です。

何か読んでくださった皆様の役に立つものではありませんが、よろしければ読んでいただけると嬉しいです。

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歴代の師長に次々と偶然出会う

1年目のときの上司、A看護師長と昇華していた辛かった思い

物品の返却のために、勤めていた病院を訪ねました。

この日は朝から何となく憂鬱で、いつも私の邪魔をしてくる子猫に対しても強張った心で接していました。

病院に着き、廊下を歩いていると、私が1年目の頃に直属の上司だったA看護師長にばったり出会いました。

「やめちゃうの?」

A師長さんは言いました。「もっと一緒に仕事したかったのに残念だよ」

このA師長さんは独特の考え方を持っていて、私はとても好きでした。私のことも、とても評価してくれていたそうです。

しかし、1年目に私が毎朝嘔吐してから通勤していたことや、自傷行為をするまで追い詰められていたことには気づいていなかったそうです。

あの時助けてほしかった。気づいてほしかった

休職前まではそんなことも思っていたのですが、今A師長を前に、何も思わない自分がいました。

休職によって、私の中の心のもやもやが、いつの間にか昇華していたのかもしれないと思いました。

2₋3年目のときの上司、B看護師長とHSCの孫の話

ランドセルの少女画像

看護部にナース服を返却しに行ったとき、私が2₋3年目のときの直属の上司、B看護師長がいました。

この師長は優しいのだけど八方美人で、本当に困ったときには助けてくれない人でした。

私たちが何度職場の環境改善を訴えても、結局分かってもらえずじまい。

私の仲が良かった真面目に仕事をしたいタイプの先輩たちは、みんなこの師長のときに仕事を辞めてしまいました

B師長さんは、孫の話を私にしてくれました。

「私の孫がとっても繊細な子でね、孫をみてるといつもあなたを思い出すの。優しくて引っ込み思案な子。中学生なんだけど、学校に行けていなくてね。つい頑張れ頑張れって尻を叩いちゃうんだけど、あんまり言わない方がいいのかしらと思うわ」

その話を聞いただけで、私はそのお孫さんのことが何となく分かったような気がしました

お孫さんは多分HSC(HSPの子ども時代)で、学校に行けないことに自分が一番苦しんでいる

頑張れという言葉がどれだけ心の負担になっているか

看護の世界でも、心が疲れている人に「頑張れ」は禁句だというのは常識ですが、この師長さんにはどうしたって分からないんだろうなと思いました。

お孫さんの繊細さを認めてあげてください」

それだけ言って、B師長に別れを告げました。

4₋5年目のときの上司、C師長と今のオペ室

休職するまで直属の上司だったC師長にも合うことができました。

私の真面目なところをとても評価してくれた師長。

この人に迷惑をかけてしまったことが私は心残りでした。

でも、師長は温かい言葉をかけてくれ、「手術室へ行く?」と聞いてくれました。

半年たった今のオペ室、行きたいけど行けない怖い場所でした。

今日の朝からの憂鬱は、ここに行くことに対しての感情だったのかもしれません。

半年ぶりに自分の部署を訪ねる

C師長の後押しもあって、ほとんど半年ぶりに尋ねることになった手術室。

多くの手術は終了してきており、ナースステーションには10人弱の同僚看護師がいました。

同僚たちは、久しぶり! と声を掛けてくれましたが、その場から動くこともなく、体調の心配をしてくれる人もいませんでした。

私のことを発達障害だと言った元指導者は、手を振るとどこかへ行ってしまいました。

地雷を踏みつくしてやっと仲良くなったはずの麻酔医は、私を一瞥すると目を逸らしました。こちらから挨拶すると、「あなたはこの機会に自分を磨いたら?」とだけ言われました。すっぴんで、髪の毛も染めてからだいぶ経っていたので、嫌味だったのでしょう。

唯一、誰にでも社交的で優しい2個上の先輩が気を遣ってたくさん話しかけてくれました。

ここが、私が心血を注いできた、私の唯一の居場所だと思っていたところでした

脳外科の怖い先生

すると、たまたま脳外科の先生がやってきました。この先生も3月で異動になるそうです。

うちの病院ではこの先生が来て初めて脳外科の手術が始まりました。

昔ながらの、せっかちでよく怒鳴る、身長190㎝の怖い先生。

私は2~4年目の頃、訳も分からずしょっちゅう新しい脳外科の手術に入れられていました。

熟練のお局様たちは新しい手術は嫌だと言って入りませんし、新人を入れるわけにもいかないから、ちょうどいい年代の私は格好の餌食だったのです。

まだノウハウも何もない手探りの状態で、一回の手術で何十回も怒鳴られ、器械を投げつけられました。

ある時は手術針のついた持針器を投げられ、それが私に刺さって、私は半年間感染症の検査を受け続けていました。

そしてインシデントレポート(医療事故届)に、「先生が投げた持針器の針が刺さった」と書いて提出したら、前述のB師長に書き直しを命じられました。

「これでは先生が悪いみたいになっちゃうでしょ、自分が悪いように書いてね」と。

このときの悔しさを、今でも覚えています。

その先生もだいぶ当院での手術に慣れ、怒鳴る回数も減ってきていたようでした。

最後の挨拶のために手術室にきた怖い脳外科の先生。

私の時には席を動かなかった看護師たちが、一斉に立ち上がり、「せんせ~、行っちゃうの? 寂しい! 写真撮ろう!」と騒ぎ出しました。

私はその様子を端の方で見ていました。

そして、有志一同でプレゼントを用意していたらしく、素敵なラッピングがされた贈り物が先生の手に渡りました。

大酒呑みの先生のために用意された高級なロックグラスは、複雑な模様がナースステーションのシーリングライトに照らされて、ギラギラと光っていました。

恒例のプレゼントと寄せ書き

脳外科の先生と同僚の看護師たちが楽しんでいる間、C師長と主任がこそこそと話しているのが目に入りました。

当院では、看護師には異動するときは3000円、退職するときには5000円分のプレゼントを部署費から出して贈ることがマニュアルで決まっています。

(医師の場合はそういうものがないので、前述の脳外科医のように有志で募ったお金でプレゼントを渡す場合があります。)

私も仲の良い先輩が異動や退職になる度、何日もかけてプレゼントを選びに行きました。

そして、寄せ書きの色紙を書いて渡すことも例外なくやっています。

私はお世話になった先輩のために一生懸命寄せ書きを作ったことが何度もあります。

反対に、無視されたり血や体液のついたガーゼを投げられたりして大嫌いだった先輩の退職時にも、担当になったので寄せ書きを作ったことがあります。(その先輩からは、ありがとうとは言ってもらえませんでした)

...

主任さんは一度席を外すとまた戻ってきて、私に封筒を手渡しました。

渡された千円札はしわくちゃだった

主任さんから渡された封筒には、主任さんのボールペン字で「お心づけ」と書いてありました。

ちなみに、「お心づけ」とは結婚式などでお世話になる人などに対してちょっとお礼をするためのお金で、海外でいうところの「チップ」の意味合いが強いです。

大急ぎで準備したので正しい言葉を調べる時間がなかったんだと思いました。

私はお礼を言って、そのお心づけを受け取りました。

何だか疲れてしまって、みんなに簡単に別れを告げると、そのまま家に帰りました。

しんとした自分の部屋の椅子にひとり座り、封筒を開くと、しわしわの千円札が5枚入っていました。

年初にみんなから徴収し、クッキーの缶の中に入れて金庫に保管してあった部署費から、そのまま入れたのだろうとすぐに分かりました。

そのしわを見ていたら何だか泣けてきて、次第に涙で顔じゅうが濡れてしまいました。

お金を貰ってこんなに悲しかったのは、生まれて初めてのことでした。

結婚式などのおめでたい出来事のときは新札を包むというマナー、意味あるのかなあなんて思っていました。でも、今回初めてその意味が分かった気がしました。心を籠めていることを表す手段として、新札を使うのでしょうね。

プレゼントも寄せ書きもなく、全く心の籠っていない「お心づけ」。

これが、全てを捨てて仕事に没頭してきた私への「答え」だったのです。

大切な人、私の居場所

その夜は、引き払う予定の自分の家には泊まらず、現在生活の拠点にしている彼の家に帰ることにしました。

彼は、仕事の後の副業に行った更にその後、駅まで迎えに来てくれました。

笑い話として、車の中で今日あったことを色々話しました。

「もうやめて、俺まで悲しくなってくる…」

本気か冗談か、彼はそんなことを言っていました。

家に着いて、猫たちに迎え入れられながら、件のお心づけの封筒を彼に見せました。

しわしわの千円札5枚。それを見たら、笑い話のつもりだったのに、また涙が溢れてきて止まらなくなりました。

恥ずかしい話ですが、思った以上に私は傷ついていたのかもしれません。

彼は、私を慰めてくれました。

「これで分かったね、あなたは仕事を辞めて良かったんだよ」

そう言われました。

何をするのも後回しにして、命を懸けてきたといっても過言ではないほどだった、仕事への情熱。

仕事をしていない自分には価値がないとすら思って疑いませんでした。

色んな心身の症状が出て、身体が悲鳴を上げても働き続けた約5年。

そして残ったのは、誰からも気に掛けられない現実と、うつ病の後遺症に、しわくちゃの千円札5枚。

でも、私には彼と猫たちがいました。

彼は、「二人だけのお疲れ様会をしよう。俺が奢ってあげるよ」と言いました。

翌日には、新札の千円を貰いに銀行へ行ってくれたらしいです。15時過ぎてて閉まってたみたいだけど…

私は、大切なものが何かをはき違えていたのかもしれません。

私の居場所はここなんだな、と、のんきにくっついて眠っている猫たちを見ながら思いました。

これからのこと

大切なものは何かを理解した今、私は自分の居場所で暮らしています。

仕事はゆっくり探します。

ブログやwebライターで、在宅で自分のペースで仕事をするのもいいと思っています。

そして、彼は結婚を望んでくれています。

私は昔から結婚というものにポジティブなイメージがなかったのですが、もしかするとそう遠くない未来に自分も結婚しているかもしれません。

これからは、自分を大切にしてくれる人を大切に。

自分の心と身体を大切に。

しわくちゃの千円札を見ながら、そう思っています。

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この記事を書いた人

最近突然ドラマにハマり出したアラサーです。
ふんわりとしたドラマレビューをしています。

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